まさに共感♪〈立ち止まる脚力〉
NN新聞で連載が始まった、哲学者:
野矢茂樹先生の「
哲学者のいる風景」。
〈
立ち止まる脚力〉の内容に、共感と実感を凄く感じた。
▲哲学に生産性はないけれど・・・
充実した生き方のためには常に目標をもつことだ。
しかし
目的地を目指して走るだけでは、
人生というのはもったいないのではないか。
散歩というのは、ゴールを目指して邁進することの対極にある。
むしろ
目的に縛られていたのでは見えてこないものへ、
心を開いていなければいけない。
ちょっとした季節の移り変わり、鳥の声、心地良い風、パンを焼く匂い・・・
それだけで幸せな気持ちになる。
生きることを、目的とか意義とか価値とかといった言葉で語るのではなく、
その味わいにおいて語る。
それこそ大人の態度ってもんじゃなかろうか。
それに
目的に向かってひた走る前のめりな姿勢は、極めて危険である。
時には効率よく進めねばならないことも勿論あるが、それだけでは済まない。
すべてを考慮して行動することはできず、私たちの能力も完璧ではない。
不測の事態は必ず起きる。
そんな時、
スピードと効率だけを考えて前のめりに行動していると、
視野が狭くなり柔軟性を失う。
だから哲学が必要なのだ。
立ち止まって問い直す余裕を失うほどに前のめりになる、こんな危険なことはない。
立ち止まって問い直す哲学の姿勢は身につけて欲しい。
大学で哲学を教えることの意味もそこにある。
実のところ、ぐっと足を踏ん張って立ち止まるというのも、
相当に脚力がいるのだから。
普段から〈熱中すること〉への違和感を何処かで少し感じていたのだが、
確かにそうなのだ。
例えばある宗教に填ったり特定チームのファンになることで、
熱中するあまり周囲が見えてなかったり心の余裕を失くしてる時がある。
「愛国者が90%を超えると国は亡びる」とも言われる。
そういう怖さを一極集中はもたらす。
一端走り出すと、止まって周囲を見回すブレーキが掛けにくくなる。
「気持ちの切替」「気分転換」「心のゆとり」・・・
主観的になり、客観的に物事を見れない時は用心!用心!
今日の一句。
「
財布にも 持ちたい余裕 心にも」
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